「Vendée Globe (ヴァンデ・グローブ)」は、4年に一度開催される単独・無寄港・無補給の世界一周ヨットレース。
“世界一過酷”ともいわれ、出場者の半数近くが途中で脱落する。このレースにアジアから唯一参加したのが、白石 康次郎選手だ。
2016年の第8回大会はリタイアしたものの、2020年の第9回大会では、ついに完走 (33艇中16位) を果たす。ヨットには、KDDIの衛星通信技術が搭載されていた。一体、どのように生かされていたのか。KDDI総合研究所 所長 中村 元が話を聞いた。
動画再生時間:2分51秒
――中村さん、船内の様子をご覧になっていかがでしたか。
中村 いやあ、感動しました! クルーザーのような船に乗ったことはあったのですが、ヨットは初めてです。
流体力学を極められた状態ですよね。「最適な全長はどの程度か」「もっと小型化できるのだろうか」と思いを巡らせていました。この日のためにデッキシューズを買ってきてよかったです (笑)。
白石選手 そこまで興味を持っていただけて光栄です。
私のヨットは全長60フィート程度 (約18.3メートル)。ヨットは基本的に大きければ大きいほど安定感と速力が増すのですが、レース中は一人で操縦しなくてはならないので手の届く範囲の規模にしています。一般の方が操縦することを考えたら、40フィートくらいが取り回しやすいのではないでしょうか。
白石 康次郎 選手
――やはり、ヨットの機能は年々アップデートされているのでしょうか。
白石選手 実はレースに参加するヨットは1つとして同じ形状のものがありません。つまり、正解がなく、みな手探り状態だということ。例えば、飛行機の場合は、空気の流れをコンピューターでシミュレーションして設計されますよね。潜水艦でも同じように水流のデータから設計するでしょう。一方、ヨットの場合は海上に浮かぶ構造上、空気と水中の流れを掛け合わせて考えなくてはなりません。さらに造波抵抗 (水上を走る物体が波に受ける抵抗) など独自の要素も加わります。こうしたデータを全て取り入れシミュレーションするコンピューターは開発されておらず、ヨットの設計者は模型をつくるなどして実験を重ねているのです。
中村 思いのほかアナログな手法で驚きました。
白石選手 物理的な試行錯誤の繰り返しですので、数年後にどんなヨットが主流になっているか想像するのが難しいです。我々の場合は、帆先をもっと丸くして浮力を増す設計にしてはどうかと考えています。
中村 そうなると、コンピューターの処理能力が上がれば、ヨットの形状にも変化が現れるということですね。
白石選手 いずれは模型を使った実験も不要になるでしょう。全長を1メートル縮めるか、それとも幅を数十センチ縮めるか。そうしたシミュレーションがコンピューター上で済んでしまう。そのように考えるとヨット開発は、まだまだ夢や伸びしろがあります。
――前回大会と比較して、ヨットの機能は大きく変わりましたか。
白石選手 一番大きな変化は「フォイル」。ヨットの側面に設置された、いわゆる水中翼ですね。浮力を得るためのもので、ヨットの速力を上げると船体が水上へ持ち上がり飛び魚のように波を蹴っていきます。
今回はフォイルを大型化したのですが、ちょっと大きくしすぎたかもしれない。持ち上がりすぎた反動で、水面に着水する際に船体が予想よりも大きく沈んでしまいました。
中村 皆さん思い思いの発想で試行錯誤されて、日々進化しているのですね。それから、水中発電にも感心しました。燃料に頼らず自然の力だけでヨットで使う電力をまかなってしまう。風力を原動力にするというヨットの本質は変わらないのですね。
白石選手 SDGsの観点からも、こうした機能は一般商船にも役立つと思っています。
中村 元
――初出場だった前回大会は惜しくもリタイアとなりましたが、今大会は雪辱を果たすという意味合いもあったのでしょうか
白石選手 まずはゴールを目指すことを重視しました。ステップ・バイ・ステップで、コツコツと実績を重ねていければいいな、という心持ちでした。もちろん優勝を諦めているわけではありませんよ。いずれは、日本の技術力を総動員したオールジャパンのヨットで出場し、優勝したいですね。
中村 それが実現できたら最高ですよね。各メーカーが高いレベルの要素技術は持っているので、それらをヨットに投入できればきっと凄いことになる。
――大会を振り返ってみていかがですか。
白石選手 どのレースにも言えますが、楽なことは一つもありませんでしたね。たった一人で世界一周。地球全体を舞台に、競技時間が2,000時間 (約80日) にも及ぶ、唯一無二のスポーツです。一日に複数回、仮眠をとりながら昼夜ヨットを操縦し続けるのですが、一度の仮眠で1時間以上眠れたことはほとんどありません。
海上ということで不確定要素も多いスポーツです。テニスや野球などは整地された場所で行うスポーツなので選手の実力がものをいいますが、ヨットレースはそうもいきません。波の速さや風の強さなど、予測不能なことばかりが起こります。苦労する一方で、それもまたヨットレースの醍醐味なのです。
――スタートから1週間後にメインセール (帆) の破損という予期せぬ事態にも見舞われました。
白石選手 あのときは「終わった」と思いましたね。原因は、オートパイロット (自動操縦装置) の不具合でメインセールが何度も強風に煽られてしまい、とうとう破れてしまいました。そうなると、目標はレースの勝ち負けではなく、生きて帰ることが最優先に。サバイバルが始まるわけです。セールを下ろす、部品を取り外す、補修する。陸上にいるチームメンバーと連絡を取り合って、一つ一つできることから進めていきました。補修が完了したのは破損から一週間後。そこでやっとレースに復帰です。
「完走」を意識し始めたのは、レース終盤のホーン岬 (南アメリカ最南端の島) を通過したあたりからですね。チームメンバーも「あと2、3艇追い越せるんじゃないですか?」と欲が出てきて (笑)。最終的に「完走」を確信したのは、ゴールのわずか10分前でした。フィニッシュラインと私のヨットの間に、他の選手のヨットや漁船が一艘もなくなったんです。それで最後の力を振り絞った。小さな奇跡の積み重ねですね。
――白石選手のヨットには、KDDIの通信技術が搭載されているようですね。
白石選手 「インマルサットFB (フリートブロードバンド)」ですね。もう10年近く使っていて、我々は「フリート」の通称で呼んでいます。用途は音声通話やインターネットが中心です。一日に2度更新される天気図をダウンロードしていました。FAXで天気図を出力していた10年ほど前と比べると、隔世の感があります。
中村 インマルサット静止衛星を介して、施設に設置されたインマルサット設備と電話・データ端末・インターネットなどを結ぶ通信サービスです。この技術があれば洋上-陸地間での通信が可能になります。
白石選手 今大会からLINEやWhatsAppといったSNSを導入できたのも、インマルサットFBがあるからこそ。メインセールが破損した際も、チームメンバーとのやりとりはSNSが中心でした。これまで使っていたメールと違って、リアルタイムでレスポンスがあるのでとても助かりました。
中村 KDDIは、長きに渡って衛星通信事業に取り組んできました。私も入社した当初は衛星通信の研究を担当していたので思い入れがあります。長い積み重ねと実績がありますので、自信をもって白石選手のサポートをさせていただいています。
白石選手 あとはサブツールとして、イリジウムの衛星携帯端末も。こちらは周回衛星を活用したKDDIの技術ですね。
白石選手 インマルサットFBやイリジウムは、地上基地局を利用していますが、最近はスペースX(米国の宇宙開発企業)のように基地局を宇宙に打ち上げようとする試みもあるようですね。
中村 おっしゃるとおり、世界中で衛星通信技術の進化が注目を集めています。
白石選手 スマートフォンと人工衛星を直接結ぶ研究も進んでいるようですし、実現すれば世の中が激変しますね。
中村 それを受けて、KDDIでも「6G」の研究に着手しています。現在稼働を開始した5Gは基地局が増えれば陸上の広いエリアをカバーすることができます。6Gは陸上のみならず、洋上や海中、宇宙もカバーエリアに含まれていくでしょう。おのずと、ヨットレース中にやりとりできる情報量も拡大して多様になっていくはずです。
白石選手 24時間リアルタイム配信の船内動画なんて面白そうですね。船内に搭載したジャイロのデータを地上に飛ばして、水槽に浮かんだ模型と動きを連動させたりして。太平洋のど真ん中にいる私と全く同じ状況を、陸上で体験できるようになるかもしれません。
中村 KDDI総合研究所が開発した「自由視点映像」技術なら、リアルタイム配信も可能かと思います。これは複数のカメラから映像を抽出して、撮影対象を3Dで表現する技術。実際にスポーツ観戦やコンサート鑑賞において導入に成功しています。
白石選手 自動車のドライブレコーダーのように、洋上での事故原因解明にも役立ちますね。また、洋上で解像度の高い気象データが入手できるようになれば、ヨットレースにも変革がもたらされるでしょう。ヨット以外の話でいえば、氷で覆われている北極の海域でも通信で各種データのやり取りができ、新しい航路の開拓ができるようになるかもしれないので、貿易や物流の世界もガラリと変わるはずです。もちろん政治的な話を考えるとスムーズにいかないこともあるかもしれませんが、技術はどんどん進化していっている。
中村 参入するメーカーが増えれば、技術も加速度的に進みます。今はその過渡期といえそうですね。
―最後に、今後の展望をお聞かせください。
白石選手 3年後に開催される「Vendée Globe 2024」で8位以内を目指します。今はチームメンバーの人材確保・育成に取り組んでいるところです。先ほど申し上げたとおり、いつかはオールジャパンの布陣でチャレンジしたいですね。
中村 いろいろなアイデアが出ましたが、やはり「勝負に勝つ」「安全を確保する」が大前提。KDDIも通信技術のみならず、さまざまな面からサポートすることに努めます。白石選手の今後のご活躍を楽しみにしています。
白石選手 ありがとうございます。今度、ぜひセーリングに出かけましょう!
取材当日は、レース中での外部とのやり取りやメインセールの補修秘話など、貴重な苦労話や体験談を白石選手に沢山語っていただきました。冒頭動画では尺の関係上入りきらなかったので改めて約10分の動画にまとめています。ぜひご覧ください。
動画再生時間:9分40秒